地球に生息するアザラシから、チョウザメ、ウナギ、ワニ、ペンギン
つまり 北極圏―中国深部―マレーシア―フロリダ―南極まで
インディ・ジョーンズばりに世界の極地を飛び回り、兵器“データロガー”で野生動物を狙う
驚くべきデータを次々に発表する / 大型捕食動物の生理生態学者・渡辺佑基
【この企画はWebナショジオ_“日本のエキスプローラ”/バイオロギングで海洋動物の真の姿に迫る”を基調に編纂】
(文/写真=渡辺佑基= & イラスト・史料編纂=涯 如水)
◇◆ ニシオンデンザメと奇跡の機器回収 =3/3= ◆◇
最悪の事態である。電波発信器が何かしらの理由で停止してしまっている!こうなると残された手段は一つしかない。目視のみで探し出すのだ。人工衛星から送られてくる位置情報には、500m程度のエラーが含まれている。さらに記録計が海流によって、常に流されているのも悩ましい問題だ。
このような悪条件のもと、目の前の海のどこかに浮かぶ小さな記録計を目視のみで見つけ出すことが、果たして可能なのだろうか。わからないけれど、とにかくやるしかない。 船長が船をジグザグに、ゆっくりと走らせてくれた。私たち研究者もイヌイットの船員たちも、全員が甲板に出て、じっと水面を見つめる。北極の冷たい風が吹き付け、体を芯から冷やしていく。
一度の休憩を挟み、4時間ほどそうしていただろうか。だが何も見つからない。そのうちに日が西に傾き、あたりが薄暗くなってきた。制限時間は迫ってきている。私はほとんど泣き出したい気持ちになっていた。
「Where it is!(そこだ!)」と叫んだのは学生のアマンダだった。私は慌ててそちらの方向を見たが、咄嗟にはどこにあるかわからなかった。ナイジェルが興奮し、「Keep watching!(目を離すな!)」とアマンダに叫ぶ。皆の視点がそちらの方向に集中し、船もそちらの方向に進み始める。
そこにはたしかに、探し求めていた記録計が――ニシオンデンザメの行動データのいっぱいにつまった記録計が――もうすっかり西に傾いた陽光を反射して、ぷかぷかと浮かんでいた。
記録計をタモで掬い上げた後、イヌイットのビリーがにっこり笑って「Are you happy?」と尋ねた。でも私の気持ちはhappyという言葉では収まりきらないような気がしたので、「Beyond words(言葉ではとても言えない)」とだけ言った。
このようにして今回のニシオンデンザメの調査では、5匹のサメから貴重な行動データを得ることができた。その意味では大成功といえるが、いっぽうで楽しみにしていたビデオカメラは、それほどうまくいかなかった。
どんな魚も釣り上げられた直後はいくらか弱っており、放流後しばらくは不自然な行動を見せる。だから当初の予定では、ビデオカメラのタイマー機能を使い、放流した翌日にビデオカメラを起動させるつもりであった。
ところが今回の新型ビデオカメラはプログラムに不備があり、タイマーが設定できなかった。だから放流時にはビデオカメラを既にスタートさせておくしかなかった。サメ1匹につき6時間ほどのビデオ撮影をしたが、残念ながら――まだすべてを確認したわけではないのだが――活発にエサを追いかけるようなシーンは、とれてなさそうである。
ただ幸いにして、北極のニシオンデンザメを調査ターゲットにしたこのプロジェクトは、来年も続く。今回得られたデータを解析しつつ、来年こそはタイマーのきちんと備わったビデオカメラを使って、この奇妙なサメが深海でエサを捕るシーンを撮影したいと思う。
次回“発見! 渡り鳥の法則”に続く・・・・・
■□参考資料: ジョン・フランクリン隊の全滅 □■ 4(18P)
1854年に、ジョン・レイの探検隊はフランクリン隊の末路を示す重要な証拠を発見した。レイは必ずしもフランクリン隊を捜していたわけではなく、むしろハドソン湾会社の代表としてブーシア半島を探検していたのだが、この旅の途上でレイはイヌイットからバック河口近くで35~40人ぐらいの白人集団が餓えて死んだという話を聞く。イヌイットはさらに、フランクリンや部下たちの持ち物と確認できる数多くの遺品を示した。
フランクリン夫人はフランシス・レオポルド・マクリントックに新たに捜索隊を任せ、レイの報告を調査させた。1859年夏、マクリントック隊はキングウィリアム島で、ケアンの中からフランクリンの死亡日付が記されたメモを発見する。このメモは1847年5月24日および1848年4月25日付けの記載があるもので、1847年に記載された部分には(ビーチー島に葬られた3人を除き)全員無事である記述("All well")がある。
ところが、のちフランクリン隊の副指揮官に追記された1848年の記載においては、氷に閉じこめられた船の中で船員が多数死亡し、フランクリンも1847年6月11日に死亡、105名の生存者は船を棄ててバック川を目指し南下したことを伝えている。マクリントックはさらにいくつかの遺体、驚くべき量の廃棄された装備品を見つけ、イヌイットから探検隊の悲惨な最期についてさらに詳しく聞いた。
フランクリン隊の遭難には、いくつかの事実が寄与している。まずフランクリンは保守的な教養を持ち、不適切な状況でむだな儀式的な慣行を行うことがあった。例えば、彼と部下たちは銀の食器類や水晶栓つきのガラス瓶、その他探検に無関係な個人的な所有物を多く持ち込んでおり、船を放棄した後にさえそれらの重い備品の多くを携えて持ち運ぼうとした。また彼らは生存手段を先住民に学ぶことを良しとしなかったか、あるいはできなかった。さらに彼らの遠征は海軍によるもので、船員の誰も厚いブーツや防寒服を持っていないなど、陸上徒歩を前提にした装備ではなかったこともある。
一行の船は1846年の夏に氷が溶けるまで航路を凍結していた異常な寒さのために、二冬の間氷に閉ざされてしまった。缶詰食料の密封に用いられた“はんだ”や、船にあった真水供給装置の鉛中毒からくる精神的影響によって、隊員の士気と結束は崩れたとされる。これは1980年代になってアルバータ大学のオーウェン・ビーティ博士の研究によって、探検隊員の遺体の骨格および軟部組織から鉛が認められたことで明らかになっている。
また最初の2年で壊血病を予防するレモンジュースがその機能を失い、そのため彼らは出血障害で衰弱していった。イヌイットの目撃証言によれば、隊員たちは壊血病に典型的な黒ずんだ唇、皮膚の爛れを発症していた。
乗組員のうち数人の骨格には、切断の形跡があった。これは過酷を極める状況下で、人肉食に頼らざるをえなかったことを示している。つまるところ杜撰な計画、悪天候、有害な食料、そして最終的には餓えなど複合的な原因によって彼らは死んでいったようだ。
しかしながらその後の長きに渡って王朝時代のメディアは、フランクリンが隊員を率いて北西航路を探求した英雄として描写し続けた。フランクリン夫人の働きかけもあって失望させるような死に際の話は抑えられ、フランクリンは英雄にまつり上げられた。彼の故郷に建てられた銅像には「ジョン・フランクリン卿 - 北西航路の発見者」という碑文が刻まれ、ロンドンのアセニアムのそばとタスマニアにも同様の碑文とともにフランクリンの像が据えられた。
一方でフランクリンが英雄視されたのは彼の多くの業績によるものという見方もあり、彼が北西航路を完遂しようという勇敢な試みのために死んでいったという事実は、公における彼の立場を守ることになった。人肉食の可能性を含めた探検隊の末路もその日の新聞紙上で抑制されることなく広く報じられ、議論の対象にもなっている。フランクリンの最後の探検には未だ多くの謎が残されている。
◆ Live!Aurora(northern lights live ) demo ◆
・・・https://youtu.be/mtBX77arPh0・・・
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